織田信長が夢と野望を込めた安土城(近江八幡市、東近江市)。天主(天守)の完成からわずか3年で焼け落ち、なおも多くの謎が残されたままだ。今年で築城開始から450年。現代の視点で「幻の城」の輪郭を捉えていきたい。
「絢爛で壮大」復元挑む

陽光を浴び、
織田信長は1576年1月、近江のほぼ中心にある安土山(198メートル)で築城に着手した。内湖に接し、のちの中山道となる街道が近くにあり、陸路の要衝だった。また、琵琶湖を水上バイパスとして利用できる好立地で、湖岸にはほぼ同時期に坂本城(大津市)、長浜城(長浜市)、大溝城(高島市)を親族と家臣に築かせた。
79年には、7階建てともされる「天主」が完成した。信長の側近・太田牛一の「信長公記」などの書物や発掘調査の結果によると、
高層天主、高い石垣、瓦ぶきの3要素を本格的に取り入れた初めての城とされ、軍事拠点の城とは一線を画した。その豪華
だが、82年に本能寺の変で信長が命を落とすと、半月もしないうちに天主は焼失し、85年には廃城となった。建物を描いた当時の図面は見つかっておらず、火災の原因も謎。これが「幻の城」といわれる

県は、その姿を知る手がかりを得ようと、1940年に最初の発掘調査を行い、60~75年に石垣を修理。89~2008年には大規模な調査を行った。天主跡からは焼けた瓦や柱、金箔瓦などが見つかっている。23年度からは実像解明と保全を進めるため、県は20年がかりの「令和の大調査」をスタートさせた。
信長が狩野永徳に安土城を描かせたとされ、ローマ教皇に贈られた「安土山図
安土城跡は「石垣しか残っていない」とも言われるが、その石垣や出土した瓦は近世城郭の先駆けである証しで、大坂城や姫路城にも取り入れられていった。さらに、軍事面よりも政治的な役割を重視した拠点で、産業や経済にも大きな影響を及ぼした。
謎を含め、安土城がもたらした様々なものについて、これから見ていく。(林華代)